Gaudi が目指す音

2014/06/06 作成
2021/04/25 更新

このページの内容は、旧ホームページ「とのちのオーディオルーム」からの転載ですが、重複部分の削除など一部編集しています。
現在(2021年4月)では、ここで紹介する考え方と異なる考え方をしていますが、参考のために掲載します。


Gaudiの目指す音は、「生きている音」です。まるで目の前で本当に生演奏をしているかのように生々しく、開放的で、躍動感・生命感があり、楽器の音が歌い、踊り、聴く者を音楽の世界にぐいぐいと引き込んでいくような音です。演奏が始まった途端、リビング・ルームがミニ・コンサート・ホールに変貌するような音です。このような音は聴く人に驚愕と興奮と感動をもたらします。まるで目の前で歌手が歌っているように聞こえるのに、そこには誰もいないと、少なからずぎょっとします。「声はすれども姿は見えず」というのは、はじめは不気味に感じるものです。しかし、一旦慣れると、音楽の世界に没入し、わくわくしてきます。そして、大きな感動へとつながります。

実は最初から「生きている音」を目指していたわけではありません。Gaudiのシステム設計を行った頃(1974年)は、単純にHi-Fi を目指していました。レコードに記録されている音楽情報を余すところなく信号として取り出し、それを歪みなく増幅し、正確に音に変換する。それが当初のGaudiサウンドの目標でした。
考えが変わりはじめたのは、1980年頃からです。大学で心理学を専攻し、感覚・知覚のメカニズムを学んだ結果、人は感覚器官でキャッチした情報をそのまま知覚することはできないということを知りました。感覚器官でとらえた情報は一旦要素要素に分解され、脳内で再構築されます。そのときに多くのエッセンシャルでない情報が破棄されます。また、他の感覚器官からの情報――特に視覚情報――や過去の経験(記憶)、先入観や思い込みにより大きな影響を受けます。人がいくら音をありのままに聞きとろうとしても、それは不可能なのです。
そのことがオーディオという趣味を成り立たせているとも言えます。スピーカーから出てくる原音とは似ても似つかない音が原音のように聞こえるのは、人間の知覚や認知のメカニズムに負うところが大きいのです。もし、耳でとらえた音をそのまま知覚するとしたら、ステレオイメージは成り立たず、左右のスピーカーから出る音が別々に聞こえるはずです。

私は次のように考えるようになりました。レコードに記録されている信号を忠実に再生することを物理的Hi-Fiと呼び、それに対して自分の耳にまるで生演奏のように聞こえる音を出すことを心理的Hi-Fiと呼ぶことにしました。Gaudiでは心理的Hi-Fiを目指すことにしました。

「生きている音」を意識するようになったのは、1999年にMA-208とメーカー製ハイエンド・パワーアンプ(LUXMANのA級アンプ)と聴き較べたときに、前者の音を「生きている」、後者の音は「死んでいる」と感じたことです(MA-208のページを参照)。この差は、前者が心理的HI-Fiを、後者が物理的Hi-Fiを追求した結果だと解釈しました。その後、Gaudiサウンドの目標を「生きている音」と呼ぶようになりました。

2014年3月現在、Gaudiサウンドは目標にかなり近い音になっていますが、物理的Hi-Fiにはなっていません。例えば、f特(周波数特性)はフラットではありません。ミッドレンジのレベルが、ウーファーとツィーターのそれと較べて-4dB~-5dBほど低くなっています。これで私の耳にはフラットに聞こえるのです。もし物理的にフラットにすると、中域が低域をマスクしたような感じになり、低域不足と感じてしまいます。以前、ミッドレンジにフルレンジ・ユニットを使用していたときは、その傾向がさらに顕著でした。
音量は音質の中で最も重要なファクターですが、その音量も、聴感上は必ずしも音圧に一致しないのです。音質を数値で表すことの困難さをつくづく感じます。音の大きさを表わす心理量をラウドネス(loudness)といいます。ラウドネスは物理量である音圧と相関関係がありますが、完全には一致しません。例えば同じ90dBの音圧でも、削岩機(道路工事等でアスファルトやコンクリートを砕くために使う機械(jackhammer))の音は手で両耳をふさがずにはいられないぐらいやかましい音ですが、オーケストラが奏でる音はそれほど大きな音には聞こえません。

ところで、レコードやCDに記録されている信号を「原音」と呼べるでしょうか。もしもそれが原音でないとしたら、そもそもHi-Fiはあり得ません。
私の答えは、条件付きで「Yes」です。ジャズやポピュラー系の音楽は、もともとオーディオ機器で聴くことを前提として創られています。録音技術者が作曲者や演奏者の意図を充分に理解した上で入念に音作りを行えば、その結果を原音とみなしてよいと思います。
それに対して、クラシック音楽は生で聴くことを前提に創られた音楽です。クラシック音楽の音は、楽器から出る音だけでなく、ホールの残響も含めて形づくられます。これを録音し、リスニング・ルームで元通りに再現することは、事実上不可能だと思います。
私は過去2度ほどウィーンの楽友協会大ホールでコンサートを聴いたことがあります。さすがに世界最高の音響といわれるホールだけあって、音の響きの美しさに感動しました。それこそ、「驚愕」し、「興奮」し、「感動」しました。ところが、楽友協会大ホールで録音された演奏をGaudiで再生しても、それらしさは全然感じられません。サントリー・ホールで録音したと言われれば、その通りに信じてしまうでしょう。Gaudiの性能不足というよりも、最初から楽友協会大ホールの響きを録音できていないのだと思います。
従って、クラシックは生で聴くのが一番だと思います。実際、私が生で聴くのはほとんどクラシックです。蛇足ですが、オーケストラの演奏は、その本拠地で聴くのが一番だと思います。ウィーンの楽団(ウィーン・フィル、ウィーン交響楽団など)を聴くのであれば、楽友協会、コンツェルトハウス、国立オペラ座などのウィーンのコンサート・ホールで聴くのがベストです。これは実際に経験してみれば、よくわかると思います。ホールも一種の楽器だということです。日本ではあまり評価の高くないウィーン交響楽団も、楽友協会大ホールで聴くと、この世のものとは思えないほどの素晴らしいサウンドを聴かせてくれます。

もちろん、Gaudiでクラシックを聴くこともあります。コンサートで聴くクラシックとは、多少趣の異なる音楽として楽しんでいます。また、クラシックの演奏家の中にもグレン・グールドのように、スタジオ録音にこだわるアーティストもいます。ピアノ独奏や弦楽4重奏などのように小編成の演奏なら、オーディオ装置で生々しく再現することは可能だと思います。

多くのオーディオファイルは音像のまとまりや定位の良さを重視しますが、私はあまり気にしません。むしろ小さすぎる音像は不自然に感じます。個々の楽器の音が分離して聞こえるとか、楽器の位置が正確にわかるといった性能は、音楽を鑑賞する上でそれほど重要だとは思えません。
クラシックのコンサートを目を閉じて聴いていると、どの楽器の音がどこから聞こえてくるのか、おおざっぱにしかわかりません。耳に入ってくる音の8割以上が間接音(残響)で、直接音は2割以下だからです。各楽器の音はホール内を響きながら混ざり合い、美しいハーモニーを形成します。私が重視するのはハーモニーです。
音楽の三大要素、メロディー、リズム、ハーモニーのうち、メロディーとリズムはオーディオ機器で容易に再現できますが、美しいハーモニーの再現はかなり難易度が高いのです。私が今でもソースとして主にアナログ盤を使用しているのも、アナログ盤のほうがCD等のデジタル・ソースよりもハーモニーの再現性に優れているからです。特に合唱に関しては、アナログ盤がその真価を発揮します。

私はピンポイントの定位にまではこだわりませんが、定位が不安定な場合は、システム中のどこかに異常があるということなので、そのときは原因を究明し、改善します。また、音場に奥行きが感じられない場合も、システムの性能不足ととらえます。